五輪とパラリンピック。異なる土俵で東京五輪を目指す早稲田OB。坂井克行×芦田創対談
田中 紘夢2016年のリオ五輪に7人制ラグビー日本代表として出場した坂井克行選手(豊田自動織機シャトルズ)と、リオパラリンピックで男子4×100メートルリレーと走り幅跳びに出場した芦田創選手(トヨタ自動車)。 互いに早稲田大学出身でアシックスのサポートを受けている2人は、来たる2020年の東京五輪・パラリンピックへの出場を目指して日々トレーニングを積んでいます。 異なる競技でトップアスリートに駆け上がったお二人。大きな転期となった大学時代のお話と、現在のアシックスを含む周囲のサポート体制について赤裸々に語って頂きました!
今の競技へ進んだ転換点
まずはじめに、今年を振り返っていかがでしたか?
坂井:今年5月にセブンズ(7人制ラグビー)日本代表のヘッドコーチが岩渕健輔さんに変わって、僕自身が代表でどのような立ち位置になっていくのか、期待と不安がありました。 セブンズを教えられる指導者は少ないので、世界的にもヘッドコーチが変わることはそこまで頻繁にないんです。それが今回は1年半でヘッドコーチが替わったので、少しびっくりしました。ただ、結果的には引き続き僕のことを必要としてくれましたし「ベテランとしてチームを引っ張っていってほしい」という要求があったので、より一層モチベーションが上がりました。
15人制と7人制のラグビーは全く違う競技だと良く聞きます。
坂井:使うボールとコートが同じでルールも似ていますが、それ以外は全く違いますね。15人制で活躍しているスター選手でも、セブンズですぐに活躍できるわけではありません。
坂井選手は大学の途中から7人制ラグビーに挑戦していますが、その経緯を教えてください。
坂井:大学ラグビーでは、年に2回だけセブンズの大会があります。その大会に出た時に、当時のセブンズの監督から「日本代表に挑戦してみないか」とお声がけいただいて、断る理由もなかったので迷わず挑戦しました。 大学の15人制では、当初は確固たるレギュラーではなく、試合に出てもあまり活躍できていませんでした。そんな時にセブンズに挑戦するチャンスが巡ってきて、セブンズでの成功体験を15人制に戻っても活かせるようになっていったので、良い機会になりましたね。
芦田選手は大学4年まではサークル活動で陸上競技を楽しんでいたものの、4年時から競走部に入部しました。
芦田:当時は周りが就活戦争に挑む中で、僕もそうあるべきだと考えていました。ただ、いざ就活をやってみると、今までは個性が欲しいからと頑張ってきたのに、敷かれたレールを歩んでいることに違和感を覚えました。 そこで自分のオンリーワンは何かと考えた時に、障がいというアイデンティティがあって、その障がいをフルに活かせる舞台がパラリンピックだと感じました。とはいえ、障がいを受け入れられていない状況でパラリンピックに挑戦しても、周りに発信できるメッセージは薄くなってしまうと考えました。なので、まずは自分がそれを受け入れ、意図的に障がい者になろうと思いました。 そのタイミングで、競走部の礒繁雄監督に出会って、本気でパラリンピックの世界でトップを目指そうと思ったんです。僕の人生の中で、とても大きな出会いでした。
それ以前は、陸上競技のトップレベルで活躍したいと考えていなかったのでしょうか?
芦田:最初は全くなかったですね。 僕は5歳の時にデスモイド腫瘍(良性腫瘍)から進行したガンを患い闘病生活を続けていたのですが、15歳の頃に医者の方から右腕を切断しようと言われました。その時に、どうせなら好きな事をやりたいと思い、今までやってみたいと思っていたスポーツを始めたら、なんと長年悩まされ続けていたガンの進行が止まったのです。 当時は片腕が不自由でも、両脚があるから陸上競技はできると思っていたので、なんとなく五輪や大きな世界大会に出てみたいという考えもありました。 ただ、競技をやっていく中で、徐々に障がいの影響に気づいていきました。0.01秒を争う世界だと、どうしても片腕が充分に使えないと差が出てしまうんです。更にトレーニングに関しても、健常者の方と全く同じ事をしていてもその効果は薄いわけです。なので、障がいがあるからという理由で自分に限界を作り始めてしまっていて、、、大学4年まではモチベーションが沸きませんでした。 もちろんパラリンピックの存在は知ってはいましたが、僕はその競技のTop of Topの大会で1番になりたかったんです。それが障がいで叶わないと決めつけてしまった時点で、世界のトップレベルで活躍したいという思いはなくなっていました。
実際には、監督からはどのような影響を受けたのでしょうか?
芦田:パラリンピックを目指すということは、自分が障がいを持っているのを露わにするということです。それ相応のメンタリティがないとできませんよね。 そう考えている時に、礒監督は初対面で「お前は障がいに甘えている」と言ってきたんです。衝撃を受けました。胸に言葉が突き刺さったような感覚でした。今振り返ってみると当時の僕はたしかに、障がいがあるから記録を伸ばすことができないと勝手に思い込んでいました。 周囲からどれだけ不利だと思われていたとしても、工夫次第では超えられるという向上心を持たないといけないのに、できないと決めつけていたんです。 なので、礒監督の言葉をもらった時に、アンバランスな身体をフル活用できる方法を考えていれば、大学時代よりももっと前から高みを目指すことができていたはずだと痛感しました。
その言葉を受けて、パラリンピックを目指すことになったのはなぜなのでしょうか?
芦田:障がいに甘えない生き方を考えた時に、それはパラリンピックで金メダルを獲ることだと考えました。 仮に僕がパラリンピックで銀メダルだったとすると、金メダルを獲った人は僕よりも甘えない生き方ができたという証明に繋がるのかなと。なぜなら、同じ境遇なのに僕よりストイックに努力して、金メダルを勝ち得たからです。 つまり、パラリンピックで僕が金メダルを獲ることができれば、誰よりも障がいを乗り越えて努力したという証明になるのではないかなと。 なおかつ「障がいはアイデンティティだ」という言葉も、僕が金メダルを獲ってから言えば影響力も大きいはずです。障がいと向き合って努力すれば、これだけ輝けるということを社会に示せますし、障がい者、健常者の双方に勇気を与えたいです。
坂井選手は大学時代からトップレベルを目指していたのでしょうか。
坂井:ラグビーでは大学卒業後に、プロではなく企業の社員としてプレーする選手が大半なので、働きながらトップレベルでプレーするという流れはある程度描いていました。 僕の場合は大学在学中にセブンズが五輪種目になることが決まったので、漠然と出てみたいとは思っていました。ただ年齢から逆算すると、2016年のリオ五輪では28歳なので、選手としてピークを迎えているか、選ばれないかのどちらかではないかなと。 2013年には日本代表に呼ばれましたが、当時は代表自体が五輪を目指して活動していたわけではなく、五輪に対するモチベーションはそこまで高くはなかったです。
卒業後は、ラグビーを続けずに一般企業に就職するという選択肢もあったのでしょうか?
坂井:大学ラグビーの大半の選手はそういった道を選びますし、もちろん選択肢にはありました。それでも僕はラグビーが好きで続けたかったので、今の道を選びました。 大学卒業後も長く選手生活を続けるのであれば、プロで活躍したほうが金銭的にも余裕は出ます。ただ社会を知っていたほうが、選手としてより一層成長できると学生時代から感じていたので、社員選手のほうが僕には向いていると思います。
入社当初は、仕事と競技を両立することの難しさは感じましたか?
坂井:お恥ずかしいことに、僕はパソコンが全く使えなかったんです。エクセルすら使えない状況だったので、これでは社会人として生きていけないと痛感しました。ラグビーを引退した後のほうが人生は長いので、何事も勉強する必要があると思いました。 正直、午前中だけでやれること多くはないです。それでも「なぜこれが必要なのか」と考えながらやることに意味はありますし、それは入社直後に上司の方からも言われました。その考え方は引退後にも活きてくるはずです。
障がいは“ジョーカー”である
先ほど芦田選手は、障がいをアイデンティティだと話していましたが、その感覚は多くのパラアスリートが持っているのでしょうか?
芦田:正確には、障がいはアイデンティティではなく、個性的な生き方ができるきっかけになる要素だと思っています。近年は2020年の東京パラリンピックに向けて、パラリンピアンが市民権を得られていますし、障がい者が輝くためのロールモデルになってきています。 ですが、世界では約5%の方々が障がい者でありながら、街中で20人に1人の割合で障がい者の方に出会うわけではありませんよね。どういう事かと言うと、僕は障がい者として表に出ていますが、中には表に出たくても出られない人もいるわけです。 なので、パラリンピアンの全員が「障がいは個性だ」と言ってしまうことは危険だとも考えています。僕らの発信で全員がそうあるべきだと捉えられてしまうと、公にできない人が苦しむ事に繋がってしまうかもしれないからです。 ただ、あくまで個人的には障がいはアイデンティティだと思っています。
その考え方は、トップで活躍しているパラリンピアンからの影響もあったのでしょうか。
芦田:あまりなかったですね。恩師の力なども借りながら、自分でその考え方を導き出しました。 少し極端な例になってしまいますが、人生をカードゲームに例えると、ほとんどの人は強いカードを求めています。トランプでいえばキングですね。就職活動も似ていて、自分の強みを見せ合い、能力が高ければ社会で勝ち残っていける確率が高まりますよね。 その中で障がいを持っていることは、明らかな不利です。僕が障がいを受け入れられなかった理由も、それが不利だと思っていたからでした。だからこそ、パラリンピックで上を目指すのは弱みを認めることにもなるので、抵抗がありました。 ただ、障がいをジョーカーとして捉えることができる世の中であれば、救われる人はたくさんいます。障がいが使い方によっては強いカードになる可能性がある社会は、これから来ると考えています。
早稲田の4年間で学んだ“強み”
学生時代の経験から自分の強みになっていることはありますか?
坂井:僕は同期に恵まれていたと思います。同じポジションにレベルの高い選手がたくさんいて、5人くらいでレギュラーを争っていました。レギュラーは簡単には取れなかったですし、1年生から試合に出場している同期もいました。 競争率が高いだけでなく、それぞれに得意分野があったので良いところは盗めましたし、自分が彼らより優っているところもあったので、挫折と自信を両方得ることができたのは財産です。1年生からレギュラーになれるような大学に入っていたら、今の僕はなかったと思います。 指導者にも恵まれていて、ポジション別の練習が終わっても、僕だけ個人練習が続くことはありました。今思えば愛情ですが、当時はハードでした(笑)。同期と指導者から学ぶことはすごく大きかったです。
芦田:今でこそ2020年の東京パラリンピックに向けて、パラスポーツの注目度が高まっていますが、以前はそうではなかったですよね。日本では大きな大会が年に2回くらいしかなかったですし、世界大会に出るにしても実費で行かないといけない状況でした。 なので、当時から競技を続けるためにお金が必要だと感じアルバイトをしたり、スポンサーさんの必要性を理解していました。 そうやって学生時代からお金を生むことの意識がついていたので、競技を続けることや起業することなど、当時から様々な選択肢を頭の中に持てていた事が強みだと思います。また、スポーツをやる上でも、その競技の社会性を考えて取り組めていた事も、強みとなっています。
トップアスリートはどこにピークを持ってくる?
お互いの競技に対する印象はいかがでしょうか?
芦田:僕は個人競技なので、全て自己責任ですが、団体競技は良い意味でも悪い意味でも周りに助けられるところはありますよね。
坂井:団体競技だと、チームメイトは最大の親友であり、最大のライバルでもあります。それをお互い認め合っていないと、チームとして成長できないですし、目標を達成できないんです。 僕たちは7分ハーフで1日3試合くらいあります。日本はチャレンジャーなので、当然ながら初戦に調子のピークを持っていくのですが、それが上手くハマったのがリオ五輪でした。初戦で世界最強のニュージーランドと対戦して、番狂わせを起こして、その勢いで決勝トーナメントに進めました。 ただ陸上競技では、例えばウサイン・ボルト選手のような強者は予選から全力を出すことはないですよね。もちろん力の有無は関係があるかと思いますが、どのようにピークを作っていくんですか?
芦田:走り幅跳びだと1回の跳躍は6〜7秒で終わってしまいます。それを予選で3本跳んで、勝ち進めばもう3本やります。走り幅跳びは本数を重ねるほど、疲労が出てくるので助走の速度が落ちていくので、僕は1本目にピークを持っていきますね。それでも回数を重ねると感覚は掴めてくるので、2本目や3本目のほうが良い記録が出てくることもあります。 種目にもよりますが、基本的に最初にピークを持っていくということは、セブンズも陸上競技も変わらないと思います。 性格的には、僕は団体競技には向いていないと思います(笑)。ラグビーのトップ選手は良い人ばかりのイメージがありますけど、どうですか?
坂井:たしかにみんな良い人ですね。学生時代も、口の悪いチームはそこまで強くない印象がありました。強いチームほど人格者が多いイメージはあります。 ラグビーは身体をぶつけ合うスポーツなので、自分が吹っ飛ばされることも、相手を吹っ飛ばすこともあります。だからこそ、口で言い合うよりも身体を張り合うほうがかっこいいという美学はあります。実力のあるチームはそのことを分かっているので、不要な労力を費やさないんです。
そんな自分の競技の魅力はどこに感じていますか?
坂井:ラグビーと聞くとセブンズよりも15人制が先に出てくると思いますが、実はセブンズのほうが人が少ない分、ボールと人がスピーディーに動くので、見ていて分かりやすいんです。 ルールが分からない方でも十分に楽しめますし、15人制は1試合しか見られないですが、セブンズは7分ハーフの試合を1日3回くらいやっているので、何試合も楽しむことができます。最近はラグビーのコアなファンの方でも、セブンズのほうが面白いと言ってくれることが多くなってきました。
芦田:陸上競技は記録を競い合うので、人間の限界に挑戦するというところが面白いですよね。世界記録が出た時には選手も観客もすごく盛り上がります。 また、障がいがある中で、どのように工夫してトレーニングを積んで、どのようなパフォーマンスを魅せるのか。そういった見方ができるとパラリンピックをより楽しめると思います。 パラリンピックの記録がどんどん伸びていくうちに、はたして健常者と障がい者はどちらか優れているのか。そう疑問に思われるようになると更に面白いですよね。 それを強く感じられるのが義足です。テクノロジーの活用によって、生身の人間よりも良い記録が出るのではないかというワクワク感が得られます。僕みたいな軽度な障がいであれば、健常者の記録にどこまで近づけるか。近づくことができれば、僕の努力は生身の人間よりも優れていると思われるかもしれません。 色々なことを考えさせられるきっかけになるのがパラリンピックですし、見方が分からないことが一つの魅力だと思っています。
2020東京にかける思い
アシックスを含む日頃からの周囲のサポートは、どう感じていますか?
坂井:僕は1カ月のうち、3週間くらいは合宿をしているんですよ。ほとんど家にいる時間がないですし、練習は1日3回くらいあります。そうなるとスパイクの消耗が早くなりますし、早い時には2カ月で壊れてしまいます。なので、シューズ提供等のアシックスさんの日頃のサポートにはとても感謝しています。 また、アシックスさんのシューズはすごく足にフィットしていて使いやすいです。海外遠征時には3足ほど持って行きますが、海外でプレーしていると向こうの選手が僕に寄ってきて、「これはどこで売っているのか」と良く問いかけてきますよ。海外ではあまり出回っていないので、欲しいと言われることも多々あります。 僕はキッカーなので、難しい角度のゴールキックを決めてインタビューで「良く決めましたね」と言われると、スパイクが良いんです!と答えています(笑)。それはリップサービスではなく、本気でそう思っているので。
芦田:アシックスさんは、シューズが本当に強いです。陸上競技はシューズの感覚が大事ですが、アシックスシューズは僕の足に本当にフィットしているので、昔から使っています。すごく考えて作っているなあと日々感じています。サポートしていただいている以上は、良い結果で返していきたいと思っています。
最後に、今後の目標について聞かせてください。
坂井:リオ五輪では、日本ラグビー界で初めて世界のベスト4に進出することができました。当時の世界ランキングで16位の日本が五輪で4位になれたので、まさにジャイアントキリングですよね。その時は胸を張って帰ることができましたが、やはり帰国後にメディアなどを見ると、メダルを獲ることに価値があると感じました。 メダルを獲っていれば今以上にセブンズは盛り上がっていたと思いますし、だからこそ2020年の東京五輪ではメダルを獲りたいです。どうしてもセブンズは15人制の延長線上にあると思われがちですが、子どもたちが15人制ではなく、セブンズの日本代表になりたいと思ってくれるように結果を残したいです。
芦田:東京パラリンピックでは何がなんでも金メダルを獲得したいです。 今まで社会に目を向けてスポーツをやってきましたし、僕が結果を残すことによってどのように社会が変わっていくのかも楽しみです。 最終的には、健常者も障がい者も垣根の無い世の中になっていく事が理想です。お互いがお互いをリスペクトし合って、共生できることが真のダイバーシティだと思っています。 僕が際立った結果を出すことによって、こういう生き方もあるんだと提示して、自分の理想の社会の実現に近づけられれば嬉しいです。 東京五輪で結果を残すために、2018年末からシドニーに拠点を移しました。海外で集中して良いトレーニングを積み、必ず力を付けて帰ってます!